明治32(1899)年、ニューヨークタイムズ紙の社説において、
はじめて「自動車(automobile)」という単語が使用されたこの年、
当時15才の私の曽祖父、原井良太郎は、南海鐡道(現、南海電気鉄道)の駅員見習になったようです。
祖父が残した書物の中から
自動車草創期と若かりし曽祖父と蒸気バスとの関係を
書いてみることにいたしましょう。
日本で最初の乗合自動車(現在のバスの原型)は、明治35(1902)年に広島で、
続いて京都で、また神戸の有馬で運行が始まったようですが、
当時の車両ですから耐久性がきわめて脆弱で、どれも短期間で壊れてしまいました。
翌年、大阪で開催された「第五回内国勧業博覧会(現在の万博の前身)」で
外国の商社がロコモービルという名前の蒸気自動車を出品しました。
梅田~天王寺間を運行して多くの人々の関心を引いたそうです。
かなり珍しかったのでしょうね。
このことが引き金となり、関西でもバス事業を起こす実業家が現れてきました。
まず京都で、続いて大阪でも。
明治38(1905)年にアメリカから蒸気自動車を3台購入し設立されたのが大阪自動車株式会社。
これが大阪ではじめての路線バス会社だそうです。
この年、南海鐡道の機関車に乗っていた22才の良太郎は、
蒸気自動車の魅力にひかれて南海鐡道を辞め、大阪自動車に入社しました。
設立当時のこの会社には蒸気自動車を運転できる者がおらず、
この車を輸入したときに一緒に来てもらったアメリカ人技師から
運転操作や整備などの指導を受けたそうです。
機関車乗りであった良太郎はすでに蒸気機関の扱いを熟知していたため、
3台あるうちの第一号車の運転手に選ばれました。
この先頭車両に腰掛けているのが曽祖父です。
その後、輸入され始めたもう少し搭乗人数の多い蒸気バスの運転士も任されることになりましたが、
当時のことですから超高額で車両を購入したものの、搭乗人数と運賃の関係や、
車両そのものの脆弱性による安定的な稼動が行い得なかったのは容易に想像がつき、
運営会社の離合集散が短期間で繰り返され、
その都度、車両と運転手ごと会社の移籍が続いたようです。
運転士兼扱い方も熟知した整備士でもあった曽祖父は各会社で重宝されていたようで、
転々とした蒸気バスとともに最終的には四国の琴平さんにある会社にまで渡り、
運転と技術指導を行っていたそうですが、車両そのものが寿命を迎えると、
出身である堺へ戻り、習得した修繕技術をもとに、大阪の池田、次いで川西の小花にて、
当時は超富裕層しか保有していなかった輸入四輪車の修繕をはじめたようです。
このことがご縁で、池田市に住んでおられた地元の名士である池田さんという素封家に
祖父は大変お世話になったようで、祖母との仲を取り持っていただいたそうです。
商用で普及が始まっていた荷台つき三輪バイクの修繕も始めました。
社名は当社の前身、日進モータース。
昭和7(1932)年4月、この家業の日進モータースで手伝い始めたのが、
当時14才の私の祖父、原井修でした。
当社の創業はここから始まりますが、実際はもっとかなり前でしょう。
彼が曽祖父、原井良太郎さんです。
車と写っているのがポイントですね。
途中戦争となり祖父も昭和14~20年まで兵役についていました。
終戦後の昭和21(1946)年9月には、
小型自動車修理 日進工作所を開業。
昭和25(1950)年6月に、株式会社尼崎モーターは設立されました。
設立当初はご覧のように、バイクを扱っておりますね。
祖父です。
これは、当社の真ん中の工場を組み立てているところです。
今もありますよ。
古いですなぁ。
この改築した2階をパプリカ神戸(カローラ神戸の前身)に貸していたそうです。下の写真にその文字が見えますね。
私は歴史や物語の類いがとても好きでして、
小さいときからいろいろと祖父に聞かせてもらった覚えがありますし、
戦争に行ったときの写真を見せてもらった記憶があるのですが
(そういうときは必ずレモンティーを飲ませてくれるのです)、
話してくれるのは、曽祖父の良太郎さんの話がメインで、
私が大きくなってからも、設立当初の話などはほとんど話してくれませんでした。
台風になると庄下川が溢れて一帯水浸しになった話ぐらいだったでしょうか。
子供時分の母の話などを聞くと、
常々機嫌が悪かったらしく苦虫を噛んだような顔をしていたそうなので
いろいろと辛いことがあったのでしょうね。
いまでも弊社には、祖父の机のあった場所から真正面に見えるところに
アメリカの詩人サミュエル・ウルマンの詩「青春」の要約を掲げております。
(整備工場には不釣合いですが)。
『人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。』
このあたりに祖父の思考の謎を解く鍵があるのかもしれません。
祖父は2007年に亡くなりましたが、最後まで会社のことを気にかけていました。
祖父の意思を尊重すべく今日も真摯に仕事に取り組みます。
私が生まれた1973(昭和48)年の写真です。
この年、兵庫トヨタの敏腕営業マンが入社します。
現会長、河野有です。
物怖じしない社交性と、抜群の機動力で
それまで故障がおきたら修理・修繕するという修理屋のイメージが強かった尼崎モーターに、
新車・中古車の積極的販売という新しい風を吹き込みました。
これで新車、修理、車検、点検、保険、買取という
トータルサービスが強力に推進できるようになりました。
イベントをやっているときの父です。
1981(昭和56)年には、新車販売をさらにアピールするためショールームを増築です。現在、軽自動車をタテに2台置いただけでキツキツなのに、乗用車が3台も入るとは!
いかに当時のクルマがコンパクトだったかがわかりますね。
当時は、入り口近く(現ショールーム)に検査場がありました。
当時のクルマはシンプル(素朴)且つ大胆なデザインでかっこいいですねぇ。このままのカタチで復刻してくれればいいのに。
モータリゼーションの興隆という言葉がさかんに使われた時代。
オイルショックを経て、高度経済成長から安定成長へと変わって行った時代とはいえ、クルマも人も勢いがありますね。
見てください。アピり全開です。どんだけ社名書いてんねん(笑)。
勢いを感じますね。
父は、持ち前の社交性で積極的にどんどんお客様を増やして行きます。
思いついたアイデアを抜群の機動力で現実化して行きます。
新車の展示会や、お客様フェア、周年祭りと、元々にぎやか好きな父は考えるよりも先に周囲を巻き込み、お客様を巻き込んで行きます。
尼崎モーターはものすごい勢いで拡大していきます。この頃のことを、こどもだった私は鮮烈に覚えています。
このころ、父が作った尼崎モーターのキャッチフレーズは
「古いのれんで新しいサービス」です。
創業から50年、設立から30年の当時、祖父からの古い伝統を踏まえた上で
時代の要求にあったサービスを生み出そうとするものすごいエネルギーを感じます。
JMC(自動車の青年会議所)で友達になった(いまでも仲良しみたいです)同世代の
同業種の人々が持っていた共通の問題意識なども影響しているのかもしれません。
時代は経れども、常に時代の要求にあったサービスをご提供するという、
尼崎モーターの背骨ともいえる理念でもあります。
ちなみに、私が作った尼崎モーターのキャッチフレーズは
「おクルマを通した一生のおつきあい」です。
父の代、祖父の代からのお客様、
20年30年以上おつきあいいただいているお客様がたくさんいらっしゃることの誇りと幸せ、
クルマというキーワードを通して、さまざまな提案ができる会社、
ながくおつきあいしていただきたいという願いを込めて掲げています。
ソフトでやさしいでしょ。性格が出ていますなぁ。
慎重居士で沈思黙考を好む私は、性質的には会長とは似ていませんが、
声は良く似ていると、お客様からもたびたび言われます。
小学校時代からの私の友達でさえまちがえたくらいです(笑)。
まちがい電話おもしろエピソードは枚挙にいとまがありません。
お電話の際は「社長」か「会長」かを確認いただいたほうがよさそうです(笑)。